7月号 ♣ お世話になった人♣

2016年06月23日

理事長コラム

6月3日読売新聞の人生案内欄に、「定年退職機に離婚し、一人住まい。此れから先が不安。」という60才代の男性からの身の上相談が掲載されていました。
「60代の男性。昨年娘の大学卒業と私の定年退職を機に離婚し、家を出ました。夢も希望もなく漠然とした不安を抱えて生活しています。

妻とは10年以上、口を利いていません。食事も1人、風呂やトイレ以外は外に出ることはありません。家の改築や家電の購入、娘の進路の相談など一切、相談もなく娘からの事後報告と請求があるだけでした。今は地方お古い借家住まい。ささやかな年金暮らし。貯金無し、酒もたばこもたしなまず、趣味、友人も無し。娘の携帯電話も半年前に替えられ、深夜のエッチなテレビを見るだけの生活...。このまま死んでしまうのか不安です。」みじめな相談です。
もし私が回答者だったら・・・
同情の立場に立つか。それとも、「しっかりしろ」としかりつけるか。
人生80歳の時代、60代でこんなひなびた生き方しかできないこの投稿者の毎日の生活を思い描くだけで気持ちが沈んでいきます。幼い頃、少年の頃。青春時代・・・どのように生きてきたのでしょうか。
作家の山久根達郎さんの回答は明快でした。
「なぜ、そうなってしまったか、ここはとっくりと考えてみる必要があります。ノートを用意して、小さい頃から今日までのことを思い出してください。

ノートの左側のページに「お世話になった人」と記して、その方の名前を書く。どんな恩を受けたか、その事柄を具体的に詳細に思い出して書いてください。

右側のページには「面倒を見てやった人」のことを思い出して書きこんでください。両方を何度も読み返してどちらの方が書き込みが多いか比べながら、来た途を振り返ってみましょう。これだけでも、この先どうするか自分で考え、見えてくるはずです。」
来た途を振り返り、行く道を自身で考える。見事な回答で感心させられました。

さっそく、私も、七〇年に及ぶ人生を振り返って日記風に書き込んでみました。仕事の関係、職業柄、年齢上・・・・あれこれ多くの人のお世話をしてきたように思いながらノートに書きこんでみました。

終戦の翌年に小学校に入学しました。食べるもの着るもの全てが貧しい時代。わら半紙にガリ版で刷られた教科書・・・母子家庭であった私の幼少年期は「お世話になった人、ひと、ヒト、・・・・・」ばかりで、何もかもおせわになったことばかりが思い浮かんできます。
何もかも貧しかった時代の幼児期の思い出は、「分かち合い・助け合う心の情」だけが思い出されてきます。
あらためて、この身の上相談から得た「お世話になった方々とできごと」を思い出し記述することのきっかけを作ってくださった作家の山久根さんに感謝しています。
ところがお世話になったことは、鮮明に思い出してもお世話になった方のお名前が思い出せない。
食べる物、生活する道具、あらゆるものが不足し、貧しかった時代、雪の日の下校時、裸足で歩いていた私は、見知らぬおじさんに呼び止められ、被っていた手ぬぐいの切れ端で下駄の鼻緒をすげかえてもらった。
燐家の歯科医に奉公しているお手伝いさんが、給金代わりの貴重なふかしイモを、昼時になるとそっと私に分けてくれたことも思い出します。
こうしたことも「世話になった人・事」としてカウントすれば、それこそ数知れない思い出ばかりで、ノートのページが埋まってしまう。
お世話になったまま、、、逝去され、疎遠になってしまった方々がほとんどで消息もつかめない。

小学校4年生の頃の思い出。
「魚屋の次男坊のグループに、私が下校時に待ち伏せされて多勢に一人でケンカをした時、駆けつけてくれて一緒に戦って、足を骨折したK君」K君は私から見ても弱虫だった。そのK君が飛び込んで戦ってくれた。
思いたって、あれこれ探し求めて、やっと、K君の奥さんから連絡をもらった。一昨年の夏、肺炎で亡くなったという。幼稚園の近くの病院に入院していたという 。
「柴田さんにお世話になったことを感謝していました。あなたの活躍をいつも喜んでいました。」。私は、K君をお世話した思い出はない。しかし、あの日の勇気あるK君からのお世話は、嬉しく思い出に残っている。
それなのに、半世紀以上彼のことは、頭の隅にもなく病気見舞いもしなかった。

私の年代では、「お世話になった方」の大半が、世を去られて、今ではお会いすることもできない。
これからますます厳しくなる高齢化社会。幼き頃は、誰もが他人にお世話になって育ってきた。老いて自分の行き先に不安を感じ迷うことあれば、自分が世話になった「心のふるさと」を辿り、訪ねて残りの人生の途を探ることも一案かもしれない。